違和感ーー変な人たちの物語

先日、フォロワーと「聲の形」の話をしていて、言いようのない違和感を覚えたので、そのことについてベラベラ書いていこうと思います。

 

まず、「聲の形」が、登場人物たちのヒューマンドラマに重きを置いた作品であることは、ひろく言われていることですし、それには疑いを挟む余地がありません。ところで、自分はヒューマンドラマ、すなわち、「人間の存在を描こう」というお話には、二つの方向性があるような気がしています。

一つは、我々が共感し、共に悩むことのできる問題を描いていく方向、もう一つが、我々が普段直面しないような、限定的な状況、問題を描いていこうという方向です。

 

一つ目の方向性の代表的な作品としては、「人間失格」などが挙げられます。あのお話、読んだ人の大半は自分のことを言われているかのように感じるらしいです。主人公と同じ悩みを読者は共有し、そうすることで、読者は、物語だけでなく、自分の内面についても考えていきます。

 

二つ目の方向性の代表的な作品としては、一例として「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」など、SFジャンルなどを挙げたいです。「アンドロイド〜」の主人公、リックの悩むことは、人間の存在や本質に関わる重要な悩みですが、それ自体は我々が経験できることではありません。むしろ特定の限定的な条件に向き合う人間を考えることで、相対的に我々とは何か?という問題の解答を得ようとしているのです。

(個人的に、人肉を食べるお話の「ひかりごけ」とか、人間の狂い限界状況での行動とかを描いたお話もこの類だと思います。)

 

でもって、本題の「聲の形」がどちらの側のお話かというとあらすじとかを聞いただけだと、どの人も決まって、一つ目の方向性の物語、つまりは共感し、共に悩むタイプの作品だと考えると思います。しかしながら、実はあれ、間違いなく二つ目の方向性(ここでは、語弊を承知の上で、「変な人たちの物語」と書かせていただきたいのですが)の物語だと思うのです。

 

そうです。あれは間違いなく、「変な人たちの物語」でした。彼らの身の回りに起こるいじめ、人間関係のもつれ、ディスコミュニケーションなどなど、は我々が経験でき、共感しうるような物語であったにも関わらず、です。

西宮さんが作品を通して悩んでいた、「自分がいることで周りの人間関係を破壊してしまい、大切な人を不幸にさせてしまう感覚」は、論理的なものではなく、理不尽で、それゆえ逃れがたい感情でした。すっっっごく端的に、そして不躾なまとめ方をしてしまえば、精神的な疾患とか、そういったものに性質は近かったでしょう。冷静に考えて、作品の中で登場する、いじめを含む人間関係の問題は、ほぼ全てにおいて西宮さんに責任がありません。それは誰から見ても客観的にそうのはずで、上野を除くほぼ全ての人は西宮さんを責めませんでした。

それでも、西宮さんは己を否定し、強い自殺願望を抱くまでの責任を感じていました。西宮さんはそもそも、周りの環境が自分にとって辛く、それらから逃れる手段として自殺を図ったのではありません。自分に負い目を感じ、周りの人間のために、いなくならなければならないという強い観念をもって、自殺を図ったのです。

 

これは、明らかに、善/悪とか被害者/加害者の枠をこえて、「変な人」そのものです。いじめられた人が、いじめられている自分が悪いと、自分に責任を感じるというだけのお話なら、今までもあったかもしれません。しかし、その後、いじめとは関係のない、そしてどう考えても自分が責任を負えないような人間関係のもつれにまでーーおそらく彼女の障がいゆえにーー強い負い目を感じ、いなくならなければならない、と考え出すのは、いじめを扱った今までのどんな作品にもなかった、新しい視点です。人によっては、リアリティがないと考えたり、あるいは、そんなのあんまりにもかわいそうじゃないか、と憤懣を抱く人もいたでしょう。それらは当たり前の反応で、本質的に、西宮さんの己の存在に対する重要な悩みは、我々が共有できるものではないような気がしてなりません。

 

こう考えてみると、西宮さんと主人公の石田との関係にも、なんとなく理解を示せます。

西宮さんは、かつて自分をいじめた、今はつながりを持たない相手と出会ったとき、そして、自分をいじめた相手と触れ合ううち、「自分のせいで失った人間関係を、取り戻す機会なのかもしれない」と考えたのです。理不尽な感情です。理解できない、僕も強くそう思います。第一、いじめについて、いじめられた側の自分に100パーセントの責任があると思ってるのがやべえし、自分の補聴器を投げて遊んでたやべえ奴が、自分の人間関係を取り戻してくれるかも、というヒーロー観に近しいものを抱くのもかなりやべえです。

ですが、西宮さんは、おそらく強迫に近いレベルで、そう考えていました、それゆえ、「いじめられていた人間が、いじめていた人間と親しい仲になる」という、やべえ状況が始まります。決して、西宮さんは主人公の石田くんに、「赦し」を与えていたのではありません。しゃべりも聞けもしない少女が、受動的に誰かを赦す”(某評論家ツイートから引用)という物語ではなかったはずです。単にあれはやべえ状況が展開されていたのです。

 

こうなってくると、もう我々は、彼らと考えを共有できません。できませんが、これらは間違いなく、登場人物たちの存在そのものを考える上で、(ひいては、我々の存在を相対化して考える上で)重要な問題として作品に色濃く現れてきます。

 

僕は、「聲の形」が面白いと思います。ですがそれは、どの登場人物に共感したわけでも、ましてや、感動して泣いたからでもありません。

今は例として西宮さんを挙げていましたが、どの登場人物も、他人にはなんとも説明し難い、論理的ではなく、理不尽で、それゆえ逃れがたい悩みや、強迫と立ち向かっていました。僕が共有できるような、とても「リアル」な人間関係の問題に、そういったリアリティにかけると指摘されるような、特殊な感情悩みを懐く人間は、僕にとって非常に愛おしかったのです。僕は割と、自分が偏屈な人間である自覚が強いですが、彼らも自分と同じような、他人と共有しがたい、特別な悩みを抱えていたのが、どうしようもなく愛おしかったのです。僕は、彼らの悩みに共感できませんでしたが、彼らがそのような、「変な」感情それ自体をもっていることは、僕にとって、とても人間らしかったのです。

 

とここまで書いて申し訳ないのですが、やっぱり、世の人間は、「聲の形」を、「変な人の物語」とは見てはいないようです。共感できたから好き、か、共感できず、リアリティがないから嫌い、と、「人間失格」に対する態度のような形で、あの作品に向き合っているように感じます。

これらの見方を否定できるわけでも、批判できるわけでもありません。舞台装置自体は、我々とゆかりないものではないですし、人物の内面に対する、明確な記述が存在するわけでもありませんからね。ただーーー僕にとっては、共感できなくてもあのお話は面白かったぞ!と子供じみた違和感を感じてしまいます。

 

まあどう考えても、あの映画や漫画のセールスは、「感動系」のくくりでしたし、パッケージとなる「いじめ」という問題も、基本的には共感を呼び覚ますものとして使われます。

僕も、なんの予備知識もなしにあの作品眺めたら、そのパッケージ通りにみるのだと思います。共感して感動して欲しいんだな、と、作者作品と別に関係のないところで展開されたセールスを眺めて、一方的に決めつけることでしょう。

そういう直感的な思いを振り切ってまで、これはーーーー「変な人たちの物語だ!」と考える人間は、そう多くなかったのかもしれません。

 

「いじめた人間といじめられた人間が付き合うのはありえないだろ」

「主人公の石田くんがクズすぎる」

どちらも、とても妥当な感想だと思います。

僕だって彼と友達にはなれないと思います。

きっと喜んで、彼を排除する側に回るのだと思います。

 

でも、泣きながら、「君に生きるのを手伝って欲しい」と言った石田には、周りの人から見たら到底倫理的にも許されない、ありえないことをしている、「変な人」の石田には、なぜか、特別な愛着に近い感情を抱いてしまいました。彼には何も共感できなかったけれども、です。

 

西宮さんに対しても、僕は共感など1ミリもできませんが、彼女の痛みをおもうことはできます。もしかしたら、彼女は、自分が永く他者に対する申し訳なさを、誰に対しても抱いてきてしまったせいで、喧嘩してぶつかり合うことができた人間なんて、石田しか居なかったのかもしれません。そしてもしかしたら、その唯一ぶつかり合うことが出来た人間とのつながりの喪失は、彼女にとってはそれこそ一生をかけても取り戻せない喪失だったかもしれません。もしかしたら、彼女はずっと、周りの人に、どんなに優しくされても、どんなに支えられても、どうしても心の奥底でそれらに申し訳なくなってしまい受け入れられず、ほんとうの意味での繋がりを持てたのは、石田に対してだけだったのかもしれません。その石田との繋がりは、自分の存在全てをかけられるぐらい、執着のあるものだったのかもしれません。

 

...こう考えたところで共感できる要素などありませんが、僕は、もしかしたら彼女が持っていたかもしれない喪失への恐怖を、すごく人間らしい感情だと考えてしまいます。

 

多分こういうのは、僕が偏屈なものの見方をする、逆張りの、キモい人間だから出てきた考えだとは思います。きっと、聲の形に僕が抱いている感情は、偏愛とかそういったものに近いのでしょう。

しょうがないよね、好きなものは多分論理的には説明できない、理不尽な、それゆえ逃れ難い感情が、そこにはありました。

クソ田舎礼賛時代

*@gtmenma さんのリレー企画の文章です

 

どうやらぼくは、故郷と呼べる風景を持っていることに誇りを持っていたらしい、と初めて自覚したのは、伊藤計劃の文章を読んでいた時だった。

 

https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20041120/p2

 

これのこの部分

 

「トトロ」はあまり好きではない。というか嫌いだ。ああいう風景は小岩で生まれて江戸川を眺めて育ち、千葉北西部のスプロール、東京に通う会社人が寝るために買った新興住宅地で育った自分には、憧れようがないあらかじめ喪われた風景だからだ。あの映画に出てくる背景の、物語の、どこにも自分は惹かれようがないし、それに惹かれることがあたかも「正しい」と言われているような映画のたたずまいには正直「貴様に憧れの対象を指し示される謂れはない」と文句のひとつも言いたくなる。

 

ぼくも目黒川を眺めて育ったはずなのだけど、生まれは茨城のド田舎だった。週末にはホーマック(ホームセンター)に足繁く通い、ホーマック横の親戚が開いてる、こぢんまりとした店でおこさまランチを頼む生活を、6歳の頃まではしていた。主な遊びは田んぼの堀で、ふな釣りをすることだったし、よくドブみたいなにおいのする霞ヶ浦の横の原っぱで、でかい虫を採っていた。

 

明らかに、伊藤計劃のそれとぼくの持っている風景は別だった。ぼくが東京に、小一の頃引っ越してからは、伊藤計劃のようなうまれで育った人間ばかりと触れ合っていたから、自分が原風景と呼べるかもしれない、ドブみたいなにおいのする霞ヶ浦を持っていることは、それなりの特別感があった、のだと思う。確か中学三年生ぐらいまでは、茨城に帰省するたびに、喉の底がきゅーっとなるような、ふんわりとした郷愁の念に駆られていたことをよく覚えている。

 

その頃は、帰省自体が楽しかったし、さびれた誰もこない駄菓子屋で、ぼくも大きくなったねぇ〜と褒められるだけで嬉しかった。そこには、おそらく、トトロで演出されていた田舎の風景があった。ぼくはその雰囲気を、無駄に横に広い祖父の屋敷に、ごろごろできる掘りごたつに、えんがわに、中庭の石に、きれいに手入れされた松に、裏山で取れるのびるに感じていた。

 

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ぼくの田舎は、一族の中でも、本家と分家たちで、家が複数あるところが多かったから、一家を指し示すのには屋号が用いられた。ぼくの家はハス屋と呼ばれた。れんこん栽培してるおうち、って意味だ。

他にも、酒屋、とか米屋、とか、いろいろあった。ぼくはハス屋のとこの孫と称された。

一族の中でやらかした奴が出るたびに、そいつは屋号付きで噂された。ちょうど、「酒屋のどら息子がさ〜」という具合に。

なにをするにも、どこにいくにも、屋号とうわさはついて回る。所属はほぼ自分と同じ意味を持っていて、自分の背中に貼り付けられた屋号を他人に見せて回って、あの田舎の人たちは生きている。

 

今ならツッコめる。典型的な、血縁に支配されたクソ田舎じゃねえか!今なら、実家に戻るたびに苦々しい顔をしていた叔父の、ある日突然バツイチの子持ちと結婚して自分の最低限の荷物だけ持って実家を出て行った叔父の気持ちも分かるかもしれない。

思えば、祖父の広い屋敷の至るところに、クソ田舎の影はあった。掘りごたつの部屋に染み付いたタバコのにおい、上座の存在する、座る位置の決まった食卓、庭師にせっせとお茶を出して縁側でもてなしたあとため息をつく祖母、家に帰りたがらないぼくの叔父、空き家になった叔父の部屋が異常に綺麗だったこと、ほとんどぼくに話しかけてこようとしない、屋敷のお手伝いさん。どれをとっても、クソ田舎礼賛時代のぼくは違和感を感じなかったが、よくよく見てみればクソ田舎だ。ぼくが生きていくことと、みんなで生きていくことがセットになっていて、みんな自他の境界はぼくの感覚よりずっとぼんやりで、だからこその人を真綿で締め上げるような感覚をみんな味わいながら、全員でそれを無視する。だってみんな"身内"だから。

 

クソ田舎要素全てに、強い、名称をつけがたいイデオロギーを感じる。でも、イデオロギーがその効果をいちばん発揮するのは、イデオロギーがあることすら意識されない時だと実感する。それは、クソ田舎礼賛時代のぼくがまさにそうだったから。ふんわりとした郷愁を抱いていたぼくは、あのバカ広い屋敷のどこにいても、安心感を感じていた。実際には、子供のぼくにですら、身動きを重くする、簡単には吐き出せない閉塞感はつきまとっていたはずなのにもかかわらずである。

 

クソ田舎をクソ田舎だと認識し、クソ田舎に蔓延しているイデオロギーに恐れおののくまでには、都会に出てって遊んでると思われたくない、と号泣する母親をぼんやり眺めたり、その母親が家の皿を半分割って血だらけになったり、祖父からのDVのストレスで胃潰瘍になった祖母のお見舞いに行って、がりがりの腕を見つめたり、横柄な態度が目立ってても、絶対に田んぼの管理だけは怠らなかった、地主らしい地主の祖父を恐れたり、それなりの手順を必要とした。だからこそ、クソ田舎に対して怒りに近いどろどろとしたものを抱く今のぼくも、きっとなにかのイデオロギーに塗れてるんだろうな、とたまに思う。少なくとも、クソ田舎をクソ田舎だと思って、クソァ!って言ってなきゃすまないようには、強迫的な観念が働いている。自分が塗れているイデオロギーを意識できないことに、たまにどうしようもない恐怖を覚えるけど、おそらくそれは仕方のないことだ。今のぼくならバカにするような、ふんわりとした郷愁と同じ類いの感情は、それが特殊なものだと気がつきすらしないまま、一生抱えていくのだと思う。

ダークナイトと画面構成

*以下の文章は映画「ダークナイト」のネタバレを多分に含むので注意して下さい

 

ダークナイトは画面構成の映画だ!と言っても差し支えないぐらい、ダークナイトの画面は管理されている。これは先人のオタクたちもよく語るところで、読みやすい文章だと

https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20081022/p1

これなんかがめっちゃおもしろい。ジョーカーのしぐさの無秩序さ、ゴッサムシティの激ヤバ世紀末感、ヒース•レジャー(ジョーカー役の人)の意味わからんアドリブとかとは真逆の欲望で、この映画は完成されている。画面の内容は全て統制できるのだ!と言わんばかりである。

ところどころでそういう管理された画面を分析することは容易だ。特定の人物に対し常に右から光があたってるとか、背景の机の右だけ整頓されてるとか、そういう話なのだけれど、それらがどういうルールのもと管理されていて、結果ダークナイトをどういう映画にしているか、というところまでは今まで理解し切れていなかった。ので、ちょっと細かめに全体を通して分析してみた。

 

今回分析する対象を定める。今回は、

 

”人物どうしが対話するシーンに関して、それぞれの人物に(進行方向に対して)どちらから光が当たっているか”

と、

”右半分、左半分で大きく見た目が異なる背景美術に対し、左右でどのような差異があるか”

 

を細かく分析していく。もちろんこれは、ダークナイトに登場するトゥーフェイス(ハービー•デント)であったり、ダークナイトのモチーフの1つである”1つのものに内在する二面性”を受けた分析である。ストーリーラインにおいてもこれらは重視されているが、画面構成の面で先の二面性等がどう描かれているのかを考えるのが、今回の分析の目標になる。

背景美術、人物に対する光源の配置以外にも管理された画面構成が存在する可能性は十分あるが、今回は特に目立つこの二つを見ていくことにする。

 

人物どうしの対話、に関しては

 

”2人以上の会話だと明確にわかるカット”

”カメラが静止しているカット”

”2〜3カット以上が使われて対話が描かれているシーン”

 

に絞って分析をかけている。この理由は、カメラがぐるぐる動き回っているとそもそも右左がよくわからないこと、これだけに絞ってもサンプルが十分に存在し、どのようなルールで画面構成が行われているかを調べるのには十分であるように思えること、などである。

というか、ぶっちゃけ曖昧なシーンまでやりだしたら三時間〜四時間かかるどころの騒ぎではないので、無理である。無理。ただの趣味だし...

 

これらの条件をつけてダークナイトを分析した結果の表が下になる。

https://drive.google.com/file/d/18bwlRBYxkxn8q8HEJAXuSMm3jGrzcSIw/view?usp=sharing

上記のリンクの表を元に、画面構成がいかなるルールで構成されているか分析する。

 

この映画における画面構成のルールには4つの段階がある。この4つの段階はだいたい、この物語の、ストーリーにおける流れの切り替わりと一致している。ルールの切り替わりが明確に示されるのは”市警本部長の死が報じられた新聞を見つけるシーン”と”バットマンが自分を轢き殺せなかった様子をジョーカーが眺めるシーン”、“船に乗った市民がスイッチを捨てるシーン”である。これらが切り替わりだと判別できる理由は後述するとして、まずは最初のルールからみていく。

 

最初のルールでは、

 

”公的なもの”

 “(正当な)権力を持つもの”

“非暴力的なもの”

が常に画面の右側から光を当てられ、

 

“公的ではないもの”

“社会的に弱いもの”

“暴力的なもの”

が常に画面の左側から光を当てられている。

 

特筆すべき、そして注意したい点は

 

”たとえ同じ人物であっても相対する人間が誰であるかによって、右から光が当たるか左から光が当たるかは異なる”

 

という点である。例を挙げつつ、この点を確認していく。

序盤の偽物バットマン達とバットマンが対峙するシーンでは、バットマンが右から光を当てられているが、その後バットマンがゴードンと対峙するシーンでは、左から光を当てられている。

これは、偽物バットマン達が、バットマンに対して公的ではないものであり(偽物って書いてあるんだからそりゃそうである)、逆にゴードンはバットマンに対して公的で、なおかつ、正当な権力を持つ人間であるからだと解釈できる。

この、何気なく使った、“~に対して“というのがやはり重要で、“ある人物Aが他の人物Bと相対するときに、左的な性質と右的な性質、どちらが強調されているのか”というのが一つ目のルールでの画面構成であると考えられる。

 

また、同じ人物どうしが対面している状況においても、光の当たり方は切り替わることがある。(表を見れば当然そうなのではあるが)これについても、そのときの状況、立場に応じて、どちらかが“比較的”右から当てられる人物の性質を持っている/左から当てられる人物の性質を持っている、という判断基準で光源が定められている。これらは対面するたびに変わっていっていると思われる。

 

背景美術においては、これらの差異が、机の左側が整理されてない雑多な様子で、右側は綺麗に整理されているという対比によって、描かれている。

 

 

 

という感じで、収集に漏れがなければ、の話ではあるのだけど、映画が始まってからはずっと上に示したルールで画面構成がなされる。ここが突然切り替わる瞬間が、”市警本部長の死が報じられるシーン”である。ここでルールがどのように、そしてなぜ変化したのかをストーリーラインと共に分析していく。

画面構成のルールがどのように変化したのかを考える。二つ目のルール下では、

 

”公的なもの”

 “(正当な)権力を持つもの”

“非暴力的なもの”

が常に画面の左側から光を当てられ、

 

“公的ではないもの”

“社会的に弱いもの”

“暴力的なもの”

が常に画面の右側から光を当てられている。

 

すなわち、一つ目のルールと正反対になっているのだ。

 

上の変化が起きた理由を考えたいが、ストーリーにおいてもだいたいこのあたりで大きな転換が起きているからだと考えるのが自然である。

この場面では何が起きていたのかを簡単におさらいすると、

 

バットマンが正体を発表しないなら、市民をひとりずつ殺していくぞ!とジョーカーが宣言し、実際に市警本部長が殺害されたことにより、それまである程度の秩序が保たれていたゴッサムシティが恐怖に包まれる、というシーンであった。

 

ここでは、いくつかの反転が起きている。まず、これまで犯罪がある程度抑制され、一定の秩序が構築されようとしてきたゴッサムシティが、ジョーカーによる犯罪をことごとく許し、秩序を失う方向性に動いてしまっていること。

さらに、バットマンに対する市民の評価も、これまでは好意的な意見の方が強調されていたのが、ジョーカーの一連の犯罪によって、正体を明かさないことで犯罪を間接的に引き起こしている存在である、と、悪いものになっていること、である。

 

このような、“ジョーカーの行動によって引き起こされた価値観の反転”の表現が、二つ目の画面構成であると考える。

 

一つ目から二つ目へとルールの切り替わりを示しているのが、二つ目の背景美術である。

二つ目の背景美術は、一つ目と対比させて、左側が落書きなどのない綺麗な様で、右側が落書きなどが存在する汚い様で描かれている。これは明らかに一つ目の画面構成とは違う物で、なおかつ、それ以降の画面構成が二つ目の背景美術と対応したものになっているから、ここがルールの切り替わりなのだと考察できる。

 

 

 

 

三つ目の画面構成を考える。

三つ目の画面構成は、表から、“基本反転したままのルールが、特定の登場人物が登場する、あるいは行動するたびに元に戻る”ものであると読み取れる。以下では、その意義と、具体的な内容について言及していく。

 

第二の画面構成を考えたときと同様に、ちょうど第三の画面構成がでてきたところ辺りでの、ストーリーの転換を追うことで、その実態を確認しようと思う。この辺りのストーリーをおさらいすると、

 

バットマンバットポッド(あのタイヤが太いイカしたバイクのことね)でジョーカーを追い詰めるシーン。ジョーカーはバットマンに殺されようとする。これまで正義の象徴であったバットマンが他人を殺す、つまりは悪としての行動をすることは、ジョーカーの本意であるからだ。そしてもちろんそのシーンでは、反転した画面構成に則って、暴力をふるう側のバットマンが右から、暴力を食らう側のジョーカーが左から光を当てられている。

そもそもジョーカーがその行動によって主張したいのは、(たとえバットマンのような正義の象徴でさえも)状況が変われば簡単に悪に染まり、人を殺すはずだ!ということなわけで、その思惑通りバットマンはジョーカーを轢き殺そうとする。そういうシーンだった。

 

しかし、結局バットマンはジョーカーの思惑通りには動かず、ジョーカーを殺さなかった。ここで第三の画面構成が現れる。具体的には、暴力をふるう側だったはずのバットマンに左から光が当てられ、“ジョーカーによって反転されたはずの画面構成が、バットマンの行動によって元に戻る”のである。

 

今までの流れと、第三の画面構成が現れたシーンの状況を併せて考えると、“<ジョーカーによって反転した価値観>を元に戻そうとあらがう人物、行動”の表現が第三の画面構成である、と言えそうである。次は、再びこの画面構成が現れるシーンを読解して、このルールが正しく適用されているのかを確認していく。

 

次にこのルールが確認されるのは、トゥーフェイス(ハービー=デント)が現れるシーンである。彼が現れるシーンでは、基本反転したままの画面構成のルールが、元に戻っている。では彼は、ジョーカーが作り出した状況に対して、どのように抗っていたのだろう?

 

ここの読解には、”ジョーカーが反転させた価値観”がなんであったか、そしてジョーカーは何がしたかったのか、を考えることが必要になる。

ジョーカーが反転させたものの具体例としてさっきは

 

“一定の秩序が構築されようとしてきたゴッサムシティが、ジョーカーによる犯罪をことごとく許し、秩序を失う方向性に動いてしまっている。

さらに、バットマンに対する市民の評価も、これまでは好意的な意見の方が強調されていたのが、ジョーカーの一連の犯罪によって、正体を明かさないことで犯罪を間接的に引き起こしている存在である、と、悪いものになっている。“

 

と具体例をあげたが、これらを引き起こしたジョーカーの意図は、さっき述べたように、“普段、一定の秩序の元では善的な行動をしている人でも、状況が変われば、簡単に悪に染まるはずだ“という趣旨のものである。だから、基本的には”反転させた価値観の中で、他人に一定の選択を取らせること“がジョーカーの目的になっている。

 

ここに対してトゥーフェイスは抗っている。トゥーフェイスはすべての選択をコインの表裏に任せることで、自分の意思では一切の物事の決断をしない。こういう態度をとると、ジョーカーが反転させた価値観も役割はなくなり、無に帰すので、画面構成が反転しなくなるのだと理解できる。

ストーリーラインを考えれば、トゥーフェイスは別に正義の心からジョーカーの作り出した状況に抗ってるわけでもなんでもないのはすぐ分かることなのだが、とにかくこういう構図の元、トゥーフェイスはジョーカーの反転させた価値観に抗い、そこに第三の画面構成がしっかりと適用されている。

 

その後は、そのトゥーフェイスですらジョーカーが利用したり、結局バットマンやゴードンが行った“ジョーカーが作り出す状況に抗う動き”が結局無に帰したりといろいろ動きはありつつ、映画はラストシーンに向かうのだが、それはまた後述するとして、いったん背景美術に焦点を当てていこう。

 

上に書いた状況の移り変わりの様子もまた、背景美術によってしっかりと描写されている。

 

ここまで二つの背景美術が出てきたが、三つ目の背景美術は今までの二つとも被らない、

左側が“暗くて整然”で、右側が“明るくて雑多”な背景美術になっている。

ここは、ちょうどゴードンやバットマンによって、“ジョーカーが反転させた価値観に抗う動き”が現れたところであるから、それと対応しているものだと考えるのが自然なように思われる。つまり、ジョーカーが反転させた画面構成のルールと、元々の画面構成のルールの中間に位置するものが第三の背景美術になっているというわけである。

 

この後すぐに第四の背景美術が登場するが、そこでは、“第一の画面構成と全く同じもの“が、”二つ目の画面構成と全く同じもの“へと(ジョーカーの行動によって)移行するというものになっている。バットマンやゴードンによる、”ジョーカーが反転させた価値観に抗う動き“が、ジョーカーの行動によってまた無に帰していく様が、第四の背景美術によって描かれている。

 

 

 

 

四つ目の画面構成を考える。

四つ目の画面構成は、“一つ目の画面構成と同様のものであるが、トゥーフェイスが出てきたときだけ反転がおこるもの”であると読み取ることが出来る。

四つ目の画面構成は、まさにストーリーのクライマックスと関わる部分である。これまでと同様、まずはストーリーをおさらいし、この画面構成が指し示すものの内容を考えていきたい。

 

ジョーカーがなんやかんやで死刑囚たちと市民達を殺し合わせようとしたシーン。結局市民、死刑囚どちらも殺し合わず、ジョーカーの思うようには事が運ばなかった。

バットマンとジョーカーも対峙するが、バットマンはジョーカーを殺さず、ジョーカーの、バットマンに自分を殺させようとする思惑も、叶うことはなかった。

 

四つ目の画面構成があらわれるのは、ここの、“船に乗った市民がスイッチを捨てるシーン”である。ジョーカーは価値観を反転させた上で、市民と囚人に人を殺すかどうかを選択させたが、どちらもお互いを殺さず、ジョーカーの思った通りにはならなかった。これはまさに、ゴッサムシティの全員が、もともと持っていた秩序を回復した瞬間であり、このタイミングで、画面構成は一つ目のものに戻るのである。これは自然な流れである。

 

…これだけだと、もとある秩序を回復してハッピーエンド!という話なのだけれど、まだ、トゥーフェイスが残っている。トゥーフェイスはまだまだ復讐する気まんまんで、すべての選択はコインに任せているため、ゴッサムシティが回復した秩序に乗っかる気などさらさらないままである。彼はジョーカーが反転させたルールにも従わなかったが、同様に、回復した秩序にも従わないのだ。これを表すのが、“トゥーフェイスが出てきた時に再び反転する画面構成”である。

以上二つのルールを併せたものが、第四の画面構成が示すものであると考えられるだろう。

 

 

 

 

ここまでで画面構成自体は全て読解することができるが、最後に、今まで分析した画面構成を駆使しながら、ラストシーンの解釈をしていきたい。

 

ラストシーンでは、秩序を回復したゴッサムシティで、唯一それに従わないトゥーフェイスと、バットマン達が対面する。ここでのジョーカーの思惑は、それまでゴッサムシティの正義の象徴であったトゥーフェイスに殺人を犯させ、それを世間に知らしめることで再び反転した価値観を作り出すこと、である。従って、ここでバットマン達が取り得る解決策とは、“トゥーフェイスを説得し、もう一度ゴッサムシティの正義の象徴としての役割を取り戻してもらうこと”になる。すなわち、秩序が取り戻されたゴッサムシティにおいて、その秩序にそった選択を、トゥーフェイスの意思で行わせる必要があった。しかし、結果としてこれは叶わず、バットマントゥーフェイスが犯した殺人の罪をかぶることで事態の収束をはかった。トゥーフェイスは最後まで選択をコインにゆだねたままだったのである。

 

トゥーフェイスが死んだ直後の段階では、第四の画面構成のルールに則って、バットマンが左から、トゥーフェイスが右から光が当てられている。しかし、バットマントゥーフェイスの罪を被ると決心すると、バットマントゥーフェイスの亡骸に触れ、トゥーフェイスが左から、バットマンが右から光に当たるようにする。すなわち、もともとの画面構成に戻すような動きをするのだ。これは、本来あるべき解決策が、トゥーフェイスに、秩序に則った選択を自分で行わせることだったのにもかかわらず、そうはできず、バットマンが、トゥーフェイスの悪事を隠蔽して罪を被り、もとあった秩序を演出するしかなくなった状況を指し示している。

 

こうして最後にバットマンは“ジョーカーには勝たせない”と発言する。これは、トゥーフェイスを改心させることは出来ず、バットマンの犠牲によって演出された秩序を、今のところは受け入れていくしかないけれど、トゥーフェイスを含む全ての登場人物が、元あった秩序の一部としてまた機能していくことになった(=全ての登場人物が、第一の画面構成によって再び描かれるようになった)という内容である。

 

トゥーフェイスは、単に“正義の味方→悪に堕ちた”というだけで解釈されがちである。しかし、こうして画面構成とストーリーを併せて分析すると、それだけではないと指摘できるはずだ。第三の画面構成において指摘したように、元々、トゥーフェイスは、“ジョーカーが反転させた画面構成に抗うような存在”だったのである。しかし、その手段である、“全ての選択をコインに任せること”こそが、最終的には、ゴッサムシティの市民達が再び獲得した秩序を乱すものとなり、(第四の画面構成では、トゥーフェイスは元の画面構成を反転させる役割であったことが、これを指し示している)バットマンによって取り除かれるものになってしまった、ということなのだ。第三の画面構成において、ジョーカーに抗っていたバットマンは、全ての罪を被って雲隠れせざるを得なくなり、一方、正義の心が由来ではないとはいえ、同様に抗っていたトゥーフェイスは、その手段そのものが、回復された秩序の敵となってしまった。この、抗っていたどちらも最終的に回復された秩序の内部にはいられない様こそが、“結局ジョーカーに勝利することは叶わなかった”ということなのであろう。