ダークナイトと画面構成
*以下の文章は映画「ダークナイト」のネタバレを多分に含むので注意して下さい
ダークナイトは画面構成の映画だ!と言っても差し支えないぐらい、ダークナイトの画面は管理されている。これは先人のオタクたちもよく語るところで、読みやすい文章だと
https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20081022/p1
これなんかがめっちゃおもしろい。ジョーカーのしぐさの無秩序さ、ゴッサムシティの激ヤバ世紀末感、ヒース•レジャー(ジョーカー役の人)の意味わからんアドリブとかとは真逆の欲望で、この映画は完成されている。画面の内容は全て統制できるのだ!と言わんばかりである。
ところどころでそういう管理された画面を分析することは容易だ。特定の人物に対し常に右から光があたってるとか、背景の机の右だけ整頓されてるとか、そういう話なのだけれど、それらがどういうルールのもと管理されていて、結果ダークナイトをどういう映画にしているか、というところまでは今まで理解し切れていなかった。ので、ちょっと細かめに全体を通して分析してみた。
今回分析する対象を定める。今回は、
”人物どうしが対話するシーンに関して、それぞれの人物に(進行方向に対して)どちらから光が当たっているか”
と、
”右半分、左半分で大きく見た目が異なる背景美術に対し、左右でどのような差異があるか”
を細かく分析していく。もちろんこれは、ダークナイトに登場するトゥーフェイス(ハービー•デント)であったり、ダークナイトのモチーフの1つである”1つのものに内在する二面性”を受けた分析である。ストーリーラインにおいてもこれらは重視されているが、画面構成の面で先の二面性等がどう描かれているのかを考えるのが、今回の分析の目標になる。
背景美術、人物に対する光源の配置以外にも管理された画面構成が存在する可能性は十分あるが、今回は特に目立つこの二つを見ていくことにする。
人物どうしの対話、に関しては
”2人以上の会話だと明確にわかるカット”
”カメラが静止しているカット”
”2〜3カット以上が使われて対話が描かれているシーン”
に絞って分析をかけている。この理由は、カメラがぐるぐる動き回っているとそもそも右左がよくわからないこと、これだけに絞ってもサンプルが十分に存在し、どのようなルールで画面構成が行われているかを調べるのには十分であるように思えること、などである。
というか、ぶっちゃけ曖昧なシーンまでやりだしたら三時間〜四時間かかるどころの騒ぎではないので、無理である。無理。ただの趣味だし...
これらの条件をつけてダークナイトを分析した結果の表が下になる。
https://drive.google.com/file/d/18bwlRBYxkxn8q8HEJAXuSMm3jGrzcSIw/view?usp=sharing
上記のリンクの表を元に、画面構成がいかなるルールで構成されているか分析する。
この映画における画面構成のルールには4つの段階がある。この4つの段階はだいたい、この物語の、ストーリーにおける流れの切り替わりと一致している。ルールの切り替わりが明確に示されるのは”市警本部長の死が報じられた新聞を見つけるシーン”と”バットマンが自分を轢き殺せなかった様子をジョーカーが眺めるシーン”、“船に乗った市民がスイッチを捨てるシーン”である。これらが切り替わりだと判別できる理由は後述するとして、まずは最初のルールからみていく。
最初のルールでは、
”公的なもの”
“(正当な)権力を持つもの”
“非暴力的なもの”
が常に画面の右側から光を当てられ、
“公的ではないもの”
“社会的に弱いもの”
“暴力的なもの”
が常に画面の左側から光を当てられている。
特筆すべき、そして注意したい点は
”たとえ同じ人物であっても相対する人間が誰であるかによって、右から光が当たるか左から光が当たるかは異なる”
という点である。例を挙げつつ、この点を確認していく。
序盤の偽物バットマン達とバットマンが対峙するシーンでは、バットマンが右から光を当てられているが、その後バットマンがゴードンと対峙するシーンでは、左から光を当てられている。
これは、偽物バットマン達が、バットマンに対して公的ではないものであり(偽物って書いてあるんだからそりゃそうである)、逆にゴードンはバットマンに対して公的で、なおかつ、正当な権力を持つ人間であるからだと解釈できる。
この、何気なく使った、“~に対して“というのがやはり重要で、“ある人物Aが他の人物Bと相対するときに、左的な性質と右的な性質、どちらが強調されているのか”というのが一つ目のルールでの画面構成であると考えられる。
また、同じ人物どうしが対面している状況においても、光の当たり方は切り替わることがある。(表を見れば当然そうなのではあるが)これについても、そのときの状況、立場に応じて、どちらかが“比較的”右から当てられる人物の性質を持っている/左から当てられる人物の性質を持っている、という判断基準で光源が定められている。これらは対面するたびに変わっていっていると思われる。
背景美術においては、これらの差異が、机の左側が整理されてない雑多な様子で、右側は綺麗に整理されているという対比によって、描かれている。
という感じで、収集に漏れがなければ、の話ではあるのだけど、映画が始まってからはずっと上に示したルールで画面構成がなされる。ここが突然切り替わる瞬間が、”市警本部長の死が報じられるシーン”である。ここでルールがどのように、そしてなぜ変化したのかをストーリーラインと共に分析していく。
画面構成のルールがどのように変化したのかを考える。二つ目のルール下では、
”公的なもの”
“(正当な)権力を持つもの”
“非暴力的なもの”
が常に画面の左側から光を当てられ、
“公的ではないもの”
“社会的に弱いもの”
“暴力的なもの”
が常に画面の右側から光を当てられている。
すなわち、一つ目のルールと正反対になっているのだ。
上の変化が起きた理由を考えたいが、ストーリーにおいてもだいたいこのあたりで大きな転換が起きているからだと考えるのが自然である。
この場面では何が起きていたのかを簡単におさらいすると、
バットマンが正体を発表しないなら、市民をひとりずつ殺していくぞ!とジョーカーが宣言し、実際に市警本部長が殺害されたことにより、それまである程度の秩序が保たれていたゴッサムシティが恐怖に包まれる、というシーンであった。
ここでは、いくつかの反転が起きている。まず、これまで犯罪がある程度抑制され、一定の秩序が構築されようとしてきたゴッサムシティが、ジョーカーによる犯罪をことごとく許し、秩序を失う方向性に動いてしまっていること。
さらに、バットマンに対する市民の評価も、これまでは好意的な意見の方が強調されていたのが、ジョーカーの一連の犯罪によって、正体を明かさないことで犯罪を間接的に引き起こしている存在である、と、悪いものになっていること、である。
このような、“ジョーカーの行動によって引き起こされた価値観の反転”の表現が、二つ目の画面構成であると考える。
一つ目から二つ目へとルールの切り替わりを示しているのが、二つ目の背景美術である。
二つ目の背景美術は、一つ目と対比させて、左側が落書きなどのない綺麗な様で、右側が落書きなどが存在する汚い様で描かれている。これは明らかに一つ目の画面構成とは違う物で、なおかつ、それ以降の画面構成が二つ目の背景美術と対応したものになっているから、ここがルールの切り替わりなのだと考察できる。
三つ目の画面構成を考える。
三つ目の画面構成は、表から、“基本反転したままのルールが、特定の登場人物が登場する、あるいは行動するたびに元に戻る”ものであると読み取れる。以下では、その意義と、具体的な内容について言及していく。
第二の画面構成を考えたときと同様に、ちょうど第三の画面構成がでてきたところ辺りでの、ストーリーの転換を追うことで、その実態を確認しようと思う。この辺りのストーリーをおさらいすると、
バットマンがバットポッド(あのタイヤが太いイカしたバイクのことね)でジョーカーを追い詰めるシーン。ジョーカーはバットマンに殺されようとする。これまで正義の象徴であったバットマンが他人を殺す、つまりは悪としての行動をすることは、ジョーカーの本意であるからだ。そしてもちろんそのシーンでは、反転した画面構成に則って、暴力をふるう側のバットマンが右から、暴力を食らう側のジョーカーが左から光を当てられている。
そもそもジョーカーがその行動によって主張したいのは、(たとえバットマンのような正義の象徴でさえも)状況が変われば簡単に悪に染まり、人を殺すはずだ!ということなわけで、その思惑通りバットマンはジョーカーを轢き殺そうとする。そういうシーンだった。
しかし、結局バットマンはジョーカーの思惑通りには動かず、ジョーカーを殺さなかった。ここで第三の画面構成が現れる。具体的には、暴力をふるう側だったはずのバットマンに左から光が当てられ、“ジョーカーによって反転されたはずの画面構成が、バットマンの行動によって元に戻る”のである。
今までの流れと、第三の画面構成が現れたシーンの状況を併せて考えると、“<ジョーカーによって反転した価値観>を元に戻そうとあらがう人物、行動”の表現が第三の画面構成である、と言えそうである。次は、再びこの画面構成が現れるシーンを読解して、このルールが正しく適用されているのかを確認していく。
次にこのルールが確認されるのは、トゥーフェイス(ハービー=デント)が現れるシーンである。彼が現れるシーンでは、基本反転したままの画面構成のルールが、元に戻っている。では彼は、ジョーカーが作り出した状況に対して、どのように抗っていたのだろう?
ここの読解には、”ジョーカーが反転させた価値観”がなんであったか、そしてジョーカーは何がしたかったのか、を考えることが必要になる。
ジョーカーが反転させたものの具体例としてさっきは
“一定の秩序が構築されようとしてきたゴッサムシティが、ジョーカーによる犯罪をことごとく許し、秩序を失う方向性に動いてしまっている。
さらに、バットマンに対する市民の評価も、これまでは好意的な意見の方が強調されていたのが、ジョーカーの一連の犯罪によって、正体を明かさないことで犯罪を間接的に引き起こしている存在である、と、悪いものになっている。“
と具体例をあげたが、これらを引き起こしたジョーカーの意図は、さっき述べたように、“普段、一定の秩序の元では善的な行動をしている人でも、状況が変われば、簡単に悪に染まるはずだ“という趣旨のものである。だから、基本的には”反転させた価値観の中で、他人に一定の選択を取らせること“がジョーカーの目的になっている。
ここに対してトゥーフェイスは抗っている。トゥーフェイスはすべての選択をコインの表裏に任せることで、自分の意思では一切の物事の決断をしない。こういう態度をとると、ジョーカーが反転させた価値観も役割はなくなり、無に帰すので、画面構成が反転しなくなるのだと理解できる。
ストーリーラインを考えれば、トゥーフェイスは別に正義の心からジョーカーの作り出した状況に抗ってるわけでもなんでもないのはすぐ分かることなのだが、とにかくこういう構図の元、トゥーフェイスはジョーカーの反転させた価値観に抗い、そこに第三の画面構成がしっかりと適用されている。
その後は、そのトゥーフェイスですらジョーカーが利用したり、結局バットマンやゴードンが行った“ジョーカーが作り出す状況に抗う動き”が結局無に帰したりといろいろ動きはありつつ、映画はラストシーンに向かうのだが、それはまた後述するとして、いったん背景美術に焦点を当てていこう。
上に書いた状況の移り変わりの様子もまた、背景美術によってしっかりと描写されている。
ここまで二つの背景美術が出てきたが、三つ目の背景美術は今までの二つとも被らない、
左側が“暗くて整然”で、右側が“明るくて雑多”な背景美術になっている。
ここは、ちょうどゴードンやバットマンによって、“ジョーカーが反転させた価値観に抗う動き”が現れたところであるから、それと対応しているものだと考えるのが自然なように思われる。つまり、ジョーカーが反転させた画面構成のルールと、元々の画面構成のルールの中間に位置するものが第三の背景美術になっているというわけである。
この後すぐに第四の背景美術が登場するが、そこでは、“第一の画面構成と全く同じもの“が、”二つ目の画面構成と全く同じもの“へと(ジョーカーの行動によって)移行するというものになっている。バットマンやゴードンによる、”ジョーカーが反転させた価値観に抗う動き“が、ジョーカーの行動によってまた無に帰していく様が、第四の背景美術によって描かれている。
四つ目の画面構成を考える。
四つ目の画面構成は、“一つ目の画面構成と同様のものであるが、トゥーフェイスが出てきたときだけ反転がおこるもの”であると読み取ることが出来る。
四つ目の画面構成は、まさにストーリーのクライマックスと関わる部分である。これまでと同様、まずはストーリーをおさらいし、この画面構成が指し示すものの内容を考えていきたい。
ジョーカーがなんやかんやで死刑囚たちと市民達を殺し合わせようとしたシーン。結局市民、死刑囚どちらも殺し合わず、ジョーカーの思うようには事が運ばなかった。
バットマンとジョーカーも対峙するが、バットマンはジョーカーを殺さず、ジョーカーの、バットマンに自分を殺させようとする思惑も、叶うことはなかった。
四つ目の画面構成があらわれるのは、ここの、“船に乗った市民がスイッチを捨てるシーン”である。ジョーカーは価値観を反転させた上で、市民と囚人に人を殺すかどうかを選択させたが、どちらもお互いを殺さず、ジョーカーの思った通りにはならなかった。これはまさに、ゴッサムシティの全員が、もともと持っていた秩序を回復した瞬間であり、このタイミングで、画面構成は一つ目のものに戻るのである。これは自然な流れである。
…これだけだと、もとある秩序を回復してハッピーエンド!という話なのだけれど、まだ、トゥーフェイスが残っている。トゥーフェイスはまだまだ復讐する気まんまんで、すべての選択はコインに任せているため、ゴッサムシティが回復した秩序に乗っかる気などさらさらないままである。彼はジョーカーが反転させたルールにも従わなかったが、同様に、回復した秩序にも従わないのだ。これを表すのが、“トゥーフェイスが出てきた時に再び反転する画面構成”である。
以上二つのルールを併せたものが、第四の画面構成が示すものであると考えられるだろう。
ここまでで画面構成自体は全て読解することができるが、最後に、今まで分析した画面構成を駆使しながら、ラストシーンの解釈をしていきたい。
ラストシーンでは、秩序を回復したゴッサムシティで、唯一それに従わないトゥーフェイスと、バットマン達が対面する。ここでのジョーカーの思惑は、それまでゴッサムシティの正義の象徴であったトゥーフェイスに殺人を犯させ、それを世間に知らしめることで再び反転した価値観を作り出すこと、である。従って、ここでバットマン達が取り得る解決策とは、“トゥーフェイスを説得し、もう一度ゴッサムシティの正義の象徴としての役割を取り戻してもらうこと”になる。すなわち、秩序が取り戻されたゴッサムシティにおいて、その秩序にそった選択を、トゥーフェイスの意思で行わせる必要があった。しかし、結果としてこれは叶わず、バットマンはトゥーフェイスが犯した殺人の罪をかぶることで事態の収束をはかった。トゥーフェイスは最後まで選択をコインにゆだねたままだったのである。
トゥーフェイスが死んだ直後の段階では、第四の画面構成のルールに則って、バットマンが左から、トゥーフェイスが右から光が当てられている。しかし、バットマンがトゥーフェイスの罪を被ると決心すると、バットマンはトゥーフェイスの亡骸に触れ、トゥーフェイスが左から、バットマンが右から光に当たるようにする。すなわち、もともとの画面構成に戻すような動きをするのだ。これは、本来あるべき解決策が、トゥーフェイスに、秩序に則った選択を自分で行わせることだったのにもかかわらず、そうはできず、バットマンが、トゥーフェイスの悪事を隠蔽して罪を被り、もとあった秩序を演出するしかなくなった状況を指し示している。
こうして最後にバットマンは“ジョーカーには勝たせない”と発言する。これは、トゥーフェイスを改心させることは出来ず、バットマンの犠牲によって演出された秩序を、今のところは受け入れていくしかないけれど、トゥーフェイスを含む全ての登場人物が、元あった秩序の一部としてまた機能していくことになった(=全ての登場人物が、第一の画面構成によって再び描かれるようになった)という内容である。
トゥーフェイスは、単に“正義の味方→悪に堕ちた”というだけで解釈されがちである。しかし、こうして画面構成とストーリーを併せて分析すると、それだけではないと指摘できるはずだ。第三の画面構成において指摘したように、元々、トゥーフェイスは、“ジョーカーが反転させた画面構成に抗うような存在”だったのである。しかし、その手段である、“全ての選択をコインに任せること”こそが、最終的には、ゴッサムシティの市民達が再び獲得した秩序を乱すものとなり、(第四の画面構成では、トゥーフェイスは元の画面構成を反転させる役割であったことが、これを指し示している)バットマンによって取り除かれるものになってしまった、ということなのだ。第三の画面構成において、ジョーカーに抗っていたバットマンは、全ての罪を被って雲隠れせざるを得なくなり、一方、正義の心が由来ではないとはいえ、同様に抗っていたトゥーフェイスは、その手段そのものが、回復された秩序の敵となってしまった。この、抗っていたどちらも最終的に回復された秩序の内部にはいられない様こそが、“結局ジョーカーに勝利することは叶わなかった”ということなのであろう。