違和感ーー変な人たちの物語

先日、フォロワーと「聲の形」の話をしていて、言いようのない違和感を覚えたので、そのことについてベラベラ書いていこうと思います。

 

まず、「聲の形」が、登場人物たちのヒューマンドラマに重きを置いた作品であることは、ひろく言われていることですし、それには疑いを挟む余地がありません。ところで、自分はヒューマンドラマ、すなわち、「人間の存在を描こう」というお話には、二つの方向性があるような気がしています。

一つは、我々が共感し、共に悩むことのできる問題を描いていく方向、もう一つが、我々が普段直面しないような、限定的な状況、問題を描いていこうという方向です。

 

一つ目の方向性の代表的な作品としては、「人間失格」などが挙げられます。あのお話、読んだ人の大半は自分のことを言われているかのように感じるらしいです。主人公と同じ悩みを読者は共有し、そうすることで、読者は、物語だけでなく、自分の内面についても考えていきます。

 

二つ目の方向性の代表的な作品としては、一例として「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」など、SFジャンルなどを挙げたいです。「アンドロイド〜」の主人公、リックの悩むことは、人間の存在や本質に関わる重要な悩みですが、それ自体は我々が経験できることではありません。むしろ特定の限定的な条件に向き合う人間を考えることで、相対的に我々とは何か?という問題の解答を得ようとしているのです。

(個人的に、人肉を食べるお話の「ひかりごけ」とか、人間の狂い限界状況での行動とかを描いたお話もこの類だと思います。)

 

でもって、本題の「聲の形」がどちらの側のお話かというとあらすじとかを聞いただけだと、どの人も決まって、一つ目の方向性の物語、つまりは共感し、共に悩むタイプの作品だと考えると思います。しかしながら、実はあれ、間違いなく二つ目の方向性(ここでは、語弊を承知の上で、「変な人たちの物語」と書かせていただきたいのですが)の物語だと思うのです。

 

そうです。あれは間違いなく、「変な人たちの物語」でした。彼らの身の回りに起こるいじめ、人間関係のもつれ、ディスコミュニケーションなどなど、は我々が経験でき、共感しうるような物語であったにも関わらず、です。

西宮さんが作品を通して悩んでいた、「自分がいることで周りの人間関係を破壊してしまい、大切な人を不幸にさせてしまう感覚」は、論理的なものではなく、理不尽で、それゆえ逃れがたい感情でした。すっっっごく端的に、そして不躾なまとめ方をしてしまえば、精神的な疾患とか、そういったものに性質は近かったでしょう。冷静に考えて、作品の中で登場する、いじめを含む人間関係の問題は、ほぼ全てにおいて西宮さんに責任がありません。それは誰から見ても客観的にそうのはずで、上野を除くほぼ全ての人は西宮さんを責めませんでした。

それでも、西宮さんは己を否定し、強い自殺願望を抱くまでの責任を感じていました。西宮さんはそもそも、周りの環境が自分にとって辛く、それらから逃れる手段として自殺を図ったのではありません。自分に負い目を感じ、周りの人間のために、いなくならなければならないという強い観念をもって、自殺を図ったのです。

 

これは、明らかに、善/悪とか被害者/加害者の枠をこえて、「変な人」そのものです。いじめられた人が、いじめられている自分が悪いと、自分に責任を感じるというだけのお話なら、今までもあったかもしれません。しかし、その後、いじめとは関係のない、そしてどう考えても自分が責任を負えないような人間関係のもつれにまでーーおそらく彼女の障がいゆえにーー強い負い目を感じ、いなくならなければならない、と考え出すのは、いじめを扱った今までのどんな作品にもなかった、新しい視点です。人によっては、リアリティがないと考えたり、あるいは、そんなのあんまりにもかわいそうじゃないか、と憤懣を抱く人もいたでしょう。それらは当たり前の反応で、本質的に、西宮さんの己の存在に対する重要な悩みは、我々が共有できるものではないような気がしてなりません。

 

こう考えてみると、西宮さんと主人公の石田との関係にも、なんとなく理解を示せます。

西宮さんは、かつて自分をいじめた、今はつながりを持たない相手と出会ったとき、そして、自分をいじめた相手と触れ合ううち、「自分のせいで失った人間関係を、取り戻す機会なのかもしれない」と考えたのです。理不尽な感情です。理解できない、僕も強くそう思います。第一、いじめについて、いじめられた側の自分に100パーセントの責任があると思ってるのがやべえし、自分の補聴器を投げて遊んでたやべえ奴が、自分の人間関係を取り戻してくれるかも、というヒーロー観に近しいものを抱くのもかなりやべえです。

ですが、西宮さんは、おそらく強迫に近いレベルで、そう考えていました、それゆえ、「いじめられていた人間が、いじめていた人間と親しい仲になる」という、やべえ状況が始まります。決して、西宮さんは主人公の石田くんに、「赦し」を与えていたのではありません。しゃべりも聞けもしない少女が、受動的に誰かを赦す”(某評論家ツイートから引用)という物語ではなかったはずです。単にあれはやべえ状況が展開されていたのです。

 

こうなってくると、もう我々は、彼らと考えを共有できません。できませんが、これらは間違いなく、登場人物たちの存在そのものを考える上で、(ひいては、我々の存在を相対化して考える上で)重要な問題として作品に色濃く現れてきます。

 

僕は、「聲の形」が面白いと思います。ですがそれは、どの登場人物に共感したわけでも、ましてや、感動して泣いたからでもありません。

今は例として西宮さんを挙げていましたが、どの登場人物も、他人にはなんとも説明し難い、論理的ではなく、理不尽で、それゆえ逃れがたい悩みや、強迫と立ち向かっていました。僕が共有できるような、とても「リアル」な人間関係の問題に、そういったリアリティにかけると指摘されるような、特殊な感情悩みを懐く人間は、僕にとって非常に愛おしかったのです。僕は割と、自分が偏屈な人間である自覚が強いですが、彼らも自分と同じような、他人と共有しがたい、特別な悩みを抱えていたのが、どうしようもなく愛おしかったのです。僕は、彼らの悩みに共感できませんでしたが、彼らがそのような、「変な」感情それ自体をもっていることは、僕にとって、とても人間らしかったのです。

 

とここまで書いて申し訳ないのですが、やっぱり、世の人間は、「聲の形」を、「変な人の物語」とは見てはいないようです。共感できたから好き、か、共感できず、リアリティがないから嫌い、と、「人間失格」に対する態度のような形で、あの作品に向き合っているように感じます。

これらの見方を否定できるわけでも、批判できるわけでもありません。舞台装置自体は、我々とゆかりないものではないですし、人物の内面に対する、明確な記述が存在するわけでもありませんからね。ただーーー僕にとっては、共感できなくてもあのお話は面白かったぞ!と子供じみた違和感を感じてしまいます。

 

まあどう考えても、あの映画や漫画のセールスは、「感動系」のくくりでしたし、パッケージとなる「いじめ」という問題も、基本的には共感を呼び覚ますものとして使われます。

僕も、なんの予備知識もなしにあの作品眺めたら、そのパッケージ通りにみるのだと思います。共感して感動して欲しいんだな、と、作者作品と別に関係のないところで展開されたセールスを眺めて、一方的に決めつけることでしょう。

そういう直感的な思いを振り切ってまで、これはーーーー「変な人たちの物語だ!」と考える人間は、そう多くなかったのかもしれません。

 

「いじめた人間といじめられた人間が付き合うのはありえないだろ」

「主人公の石田くんがクズすぎる」

どちらも、とても妥当な感想だと思います。

僕だって彼と友達にはなれないと思います。

きっと喜んで、彼を排除する側に回るのだと思います。

 

でも、泣きながら、「君に生きるのを手伝って欲しい」と言った石田には、周りの人から見たら到底倫理的にも許されない、ありえないことをしている、「変な人」の石田には、なぜか、特別な愛着に近い感情を抱いてしまいました。彼には何も共感できなかったけれども、です。

 

西宮さんに対しても、僕は共感など1ミリもできませんが、彼女の痛みをおもうことはできます。もしかしたら、彼女は、自分が永く他者に対する申し訳なさを、誰に対しても抱いてきてしまったせいで、喧嘩してぶつかり合うことができた人間なんて、石田しか居なかったのかもしれません。そしてもしかしたら、その唯一ぶつかり合うことが出来た人間とのつながりの喪失は、彼女にとってはそれこそ一生をかけても取り戻せない喪失だったかもしれません。もしかしたら、彼女はずっと、周りの人に、どんなに優しくされても、どんなに支えられても、どうしても心の奥底でそれらに申し訳なくなってしまい受け入れられず、ほんとうの意味での繋がりを持てたのは、石田に対してだけだったのかもしれません。その石田との繋がりは、自分の存在全てをかけられるぐらい、執着のあるものだったのかもしれません。

 

...こう考えたところで共感できる要素などありませんが、僕は、もしかしたら彼女が持っていたかもしれない喪失への恐怖を、すごく人間らしい感情だと考えてしまいます。

 

多分こういうのは、僕が偏屈なものの見方をする、逆張りの、キモい人間だから出てきた考えだとは思います。きっと、聲の形に僕が抱いている感情は、偏愛とかそういったものに近いのでしょう。

しょうがないよね、好きなものは多分論理的には説明できない、理不尽な、それゆえ逃れ難い感情が、そこにはありました。